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「努力至上主義」も神話にすぎない
必死に努力しても、報われない社会が到来している。非正規雇用でどれだけ努力をしても、正社員になれない若者がいかに多いことだろうか。非正規社員の力や経験に大きく依存しながら、企業の経営や社会の存続が保たれているのにもかかわらず、「機械の歯車」のような位置づけである。若いうちは努力をするべきで、それは一時的な苦労だという考え方(努力至上主義説)も神話にすぎない。

企業は労働者を大切に扱わない。ましてや正社員化を進めようとしない。雇用は増え続けているが、もっぱら非正規雇用の拡大であり、その不安定な働き方に抑制が利かない。いかに人件費を削ればよいかということが企業目標にもなっており、若者たちの労働環境はこれまでにないほど劣化している。
このような労働環境の劣化を放置しながら、若者にただただ努力を求めるのは酷ではないだろうか。

わたしは今日、このような努力至上主義を信奉することこそ、若者たちを追いつめていくと批判せざるを得ない。企業経営者の中には少なからず、自身の成功体験もあるせいか、努力至上主義を主張する者がいる。

もちろん、努力が必要ではないと言っているわけでは決してない。わたしは努力をして「報われる労働」と「報われない労働」の2種類にハッキリ分かれることを確信しているのだ。この2種類があることを説明することなく、すべてにおいて「努力すれば報われる」と述べるのは、時代錯誤的、あるいは無責任であると考えている。

稲盛和夫氏は、「本当の成功を収め、偉大な成果を生むには、まず自分の仕事にほれ込むことです」と述べている。古き良き時代を生きてきたとしか言いようがない。ほれ込める仕事とは、おカネを稼ぐだけではなくて、やりがいの感じられる仕事であり、創造的な、自分の個性を多少なりとも発揮できる仕事ではないだろうか。それによって、自尊感情や社会から認められたという意識も育まれ、徐々に自信や社会人としての自負を深めていくのだろう。

端的に言って、自分の仕事にほれ込むことができない労働条件や労働環境が増えている。これらの労働環境を考えることなくして、努力が一様にすべて報われるのだという時代ではもはやないことは繰り返し強調したい。時代が違うので、昔話に決して惑わされないで欲しいということだ。