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ディエンビエンフーのお勧め

1: エトランゼ 2006年07月16日 13:31 報告
ディエンビエンフーに行こうと思っています。
ガイドブックを見ても情報量が多くないので、
戦場の跡以外にお勧めがありましたら、教えてください。

みんなのコメント 18

エトランゼ様

>東京近郊にお住まいでしたら、1度お会いしませんか?

お誘いありがとうございます。
都内在住ですので、是非お願いします。
(メールアドレスを載せますので連絡頂ければと思います)

日本敗戦後アメリカが一番脅威に思ったのはスターリンのソ連だったんだよね。
第一次インドシナ戦争のフランスの戦費の80%はアメリカが負担してるはず。
第二次世界大戦で作りすぎた兵器をフランスに渡して名目援助にしたという側面もあるんだけどね。その当時植民地復活戦争にアメリカが荷担したのはヨーロッパの西側諸国の結束を重視したい為。当時のアメリカ的にもかなり時代錯誤だった。

衝撃だったのはスカルノの共産党支持の姿勢。スハルトが政権取ったらスムーズにベトナムからの米軍撤退が行われた。ベトナム戦争関連の本はインドネシアの政変に殆ど触れないけど、海上輸送を考えた場合タイ、シンガポール、インドネシア、マレーシアのラインは無視できないと思うけどね。
キシさん

仏印処理時の通訳さんについてかかれた本の題名を教えていただけますか?

ところで2005年末、北圻に行く前に、フランス外人部隊や
アメリカグリーンベレーの経験をお持ちの「柘植久慶」氏の著書
「フランス外人部隊」「前進か死か」を読んだのですが、
このような記述がありました。
 フランスは、インドシナ戦争で1年間に失う将校の数が、
毎年サン・シール陸軍士官学校の卒業する数を5割を上回った。
つまり2年で3年分の卒業生を失うことになった。
こうした深刻な将校不足を士官不足のため、それまで敵国であった
ドイツにあらためて訓練不要な戦闘経験十分な士官経験者を求めた。

補給についても「前進か死か」にかかれていますね。

フランスにとって、旧敵国に人材を求めないとならないほど、泥沼の戦いであった。
ハノイで、この話題が何度かでたが、フランス人もドイツ人もインドシナ戦争が
ドイツ人を中心とした外人部隊の戦いであることは知っていた。
しかし、ほかの国の人はほとんど知らなかった。


 戦争で犠牲者が多ければ、選挙で支持を失う。一党独裁の国であればともかく、
複数政党制の国では問題になる。そのため、アメリカのように十分な資金や
技術のある国は、トマホークや無人偵察機、スパイ衛星など人を使用しなくともよい
武器を使用することができるが、ほかの国ではアメリカのようにいかない。
そこで、フランスは外人部隊を、イギリスはグルカ兵を派兵する。
アメリカでも人が必要なところには、(帰還後、市民権を与える条件で)移民兵を
派兵する。

ヴェトナムに行く度に、戦争について考えるようになった。
ディエンビエンフーが軍事的に重要だったのは、あそこは中国からの補給路に近かったから。戦争は補給路潰せば通常敗戦になる。フランスはそこを拠点に補給路を潰そうとしたんだろうけど、盆地の下に何を考えたんだか基地を作って撃ち下ろす形にしたのが敗因と言われている。

ベトナム戦争当時ダナンのケサンも同じような戦いになったけど、アメリカの猛攻でベトナムは側は奪取できなかった。
仏印に駐留して通訳やっていた自転車協会だかの佐野さんのだったかな?
その人の本に日本が敗戦して除隊、サイゴンの不動保険の駐在事務所にお世話になった時に道を歩いていたら欧米人の兵隊に呼び止められて『俺はドイツ人だ』と自己紹介されたとか。
戦犯にしない代わりに外国人部隊としてドイツ人を使ったんだよね。
現在、フランス軍は徴兵制の為に自国の軍隊は国防以外の理由で海外派兵ができない、そのため外国人部隊が今でも残っていてそれが海外に派兵されている。

アメリカより余程えげつない国だと思うけどね。
キシさん
遅くなってすみません。
地形的には盆地ですが、今の街からはここが戦場であったのかとは
思えませんでした。軍事的になぜ重要なのか、素人にはわかりません。

戦場の跡などは、戦車や武器が多少陳列されていること、
ピロー隊長が自決したA1の丘、カストリ将軍の司令部以外
まるで跡形もありません。

ここで、ドイツ人が死体と死臭に埋もれながらも最後まで勇敢に戦ったのだな
とは思えないほどの、のどかなところでした。
今、ディエンビエンフーの戦いについて調査をしています。


SEASONG1996さん
ディエンビエンフー市内では通じましたが、ライチャウ間の村では
全く通じませんので、マイチャウでも通じないのでは。
ソンラー〜ホアビンは行っていません。

ディエンビエンフーのホテルではレセプションとレストラン以外
英語、フランス語が通じなかったのでタイ語で行ってみたら通じました。
A1の丘で土産を打っているターイ族の老女もタイ語が通じました。
市場でも通じました。

東京近郊にお住まいでしたら、1度お会いしませんか?
エトランゼさん

無事帰還&楽しまれたようでよかったです。
あと、仲間が出来たような感じ!?でうれしいです。

ディエンビエン市内のターイ族の村はタイ語?ラオス語?が通じるんですね!
マイチャウのターイ族のオヤジがターイ語とタイ語は似てるだの、言っていたんですが、マイチャウではさっぱりだったので、ガセかと思っていたんですが、まんざら嘘でもないみたいですね。

あと、ソンラー〜ホアビンあたりは行かれましたか?ライチャウ〜ディエンビエン気に入られたようであれば、そちらもお勧めです。フォトジェニックでもありますよ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%83%93%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%83%95%E3%83%BC%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

俺も行ってみたいんだけど、地形的にどうだったか感想があれば書いて欲しいな。
『こりゃ撃ち下ろされて当り前』みたいな。
>か〜か〜 言ってました か〜

いいえ、ラオス語と同じ、ボ〜 でした。
やっぱり か〜か〜 言ってました か〜

行ってみたいな〜
SEASONG1996さん

ディエンビエンフーより帰還しました。
市内のタイ族には、タイ語が通じました。(驚いていました。)
市内では通じる人もいますが、数の数え方がヴェトナム式でした。

しかし、タイ族だけの村では、「村」と「母」以外の言葉は通じません。

食事は、鹿や猪が食べられて、楽しかったですよ。

ライチャウの市場では、ラオス人に東北タイ方言(ラオス語に近い)で
言ったら驚いていた。そんな感じのところでした。


ちなみに私のタイ語がちょうどそんな感じ(下ネタ用)です・・・
Thai族とコミュニケートしなくてもそれなりに楽しめると思いますよ。

ディエンビエンフーからライチャウに向かうにつれ、H'mong 族が多く、女性などはベトナム語もなかなか通じにくかったですが、なかなか楽しかったですよ。
もう1度行ってみたいと思ってます。

問題は。。。問題というほどではないですが、食事の楽しみがあまりないことですかね〜。
SEASONG1996さん

色々とありがとうございます。
自分は、ディエンビエンフーはラオスに近いので、
ラオス語はタイ語に近いので、通じるかなと思ったのです。

ヴェトナム語は、下ネタ用の卑猥語と下劣語しかわからないので、
ちょっと不安です。
こんにちはエトランゼさん。

ホテルとかは英語通じますよ。(もちろんライチャウも)

ただ、一般のターイ族の方とはベトナム語(ターイ族にはKinh語といわれました・・)で話しました。
英語話せる率は場所柄あまり高くないような気もします。
あとタイ語ですが、ホアビン・マイチャウのターイ族のターイ語はいわゆるタイ語:パーサタイの方(笑)とは違いましたね〜。(ただ、ソンラーとかディエンビエンフーのあたりはたぶん黒ターイ族でマイチャウあたりの白ターイとは種類も違いそうなんで、なんともいえないんですがこちらも期待薄かと。。

いい加減な回答ですいません。。。
SEASONG1996さん ありがとうございます。

確かにこれから沈む村に行くのも良いかも。

全然レスポンスがないので、
皆様に忘れられたのかなと思っていました。

ところで、SEASONG1996さんは何語で話されましたか?
ここでは、英語通じますか?
英語かタイ語が通じれば良いのですが。
たしかに・・どこの田舎も同じ(今回でいうとラオス国境の田舎ならどこもそんな感じ)かも・・)
ベクターさん的にはどうですか?ディエンビエンフーのお勧めって他にありましたっけ〜?
それじゃ、どこの田舎も同じ。
ディエンビエンフーはマンゴーが安いですよ。1kg2000ドン〜4000ドンくらい。
あと、、、
バイクでも借りて20分も走るとThai族の高床式住居エリアもあります。Thai族の皆さんなかなか人懐っこいし親切ですよ。(彼らいわく、Kinh族と一緒にしてほしくない!?とのこと)
3〜4日滞在されるなら、これまたバイク借りて(旧)LaiChauでも行かれては如何ですか?いずれダムに沈む渓谷の底にある寂れた町!村?です。途中の景色(風景&少数民族のみなさんの生活っぷり)もすばらしいですよ。

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